Fiori di Luce 〜光の花束〜 真実の欠片  本日も梅雨らしく雨。  学校にほど近い交差点で赤信号に引っ掛かると、あたしと同じブレザーが次々と歩道を埋めていく。灰色の空が透けるビニール傘の上で、パチパチと弾ける雨粒の音を聞き届けながら、あたしは溜め息をついた。  ……醜態を晒してしまった。  状況が状況だけに仕方がなかったと、自分を言い聞かせてみるものの。  足を止めた時だとか携帯を開いた時だとか……気を緩める瞬間があれば即座に、昨夜の記憶が滑り込んできた。その度に、突っ伏したくなる。  今朝が良い証拠。  普段より早い時刻に目覚め、肌に馴染んだモスグリーンの布団をぼんやりと眺めていると、次第に覚醒する脳が泣き叫んだ記憶を蘇らせてきた。それどころか、事実だと見せつけるように克明に思い出させる。恥ずかしい。  自分の無様な姿を打ち消したくて枕に向かって叫びまくった。顔は真っ赤だったに違いない。 「うぅ……」  周りに知り合いがいなかったけれど唸った。  声をからすほど泣いたのはいつぶりか。しかも、恩人でもある十六夜を責め立てた。  確かに、あの時は気が高ぶってはいた。だけど泥のようにひと晩眠ると、何が起こったかという実態よりも何をやらかしてしまったかという現実が、精神的にキツかった。  はっきり言おう。逃げたい。学校に行きたくない。 「やだなぁ」 「……何が?」 「うわぁっ!」  うっかり溢れた本音が、誰かに拾われた。  茶髪、ロン毛、天真爛漫、騒音の原因――助けてくれた、人。 「十六夜、驚かさないでよ」  大きめの傘を差した渦中の人が、突っ立っていた。  もちろん、顔はまともに見られるわけがない。 「こんな道のど真ん中で溜め息ついてちゃダメでしょ。ささ、信号も青に変わったことだし、仲良く同伴といきましょうや」  まるで何事もなかったような軽い言い回し。手にしたコンビニ袋を揺らしながら、人の波に乗っていそいそと学校へ向かっていった。  どうせならこのまま、十六夜単品で学校に向かってくれれば良いのだけど、 「おーい! 萱置いてくぞー!」  ひとりさっさと横断歩道を渡りきったところで、重い足取りのあたしを必要以上の大声量で呼びつけた。傘を振り回していて、もはや雨避けの意味がない。  今日何度目かの溜め息を吐く。最後のものは、諦めの感情が半数を占めていた。  我が教室は、閑散としていた。  始業時間に比べて数十分ほど早く到着したのが理由だと思うけど、片手で足りる人数しかいないのはいかがなものか。  一年二組の教室には勤勉な生徒が少ないらしい。  とはいえ日ごろの自分を振り返ると、百歩譲らなくても胸を張れる立場じゃないから口には出せない。 「結局わかんなかった」  十六夜は席に着くなり、生クリーム大サービスのチョココロネをコンビニ袋から取り出して、豪快にかぶりついた。 「何がわかんなかったの?」  コンビニで手に入れてきた三個百円のドーナツに舌鼓をうちながら先を促した。十六夜は、首に張りつく髪を掻き上げて続きを話す。 「昨日の原因」 「原因?」  話が見えない。  何を言いたいのかは、なんとなくわかるけれど、何を伝えたいのかは想像できなかった。そんなあたしに気づいてか、十六夜はチョココロネをくわえたまま、こちらに体を向けた。 「誰があんなことをしたのか。何が狙いなのか。手を尽くしたけど、さっぱりわからなかった」  眉をひそめ、握り拳でこめかみをこんこんと叩く。  渋い顔のまま何かを思い出したそうに目を泳がせるけど、結局何も思いつかなかったらしい。そのままふた口目に突入した。 「そんな簡単にわかるもんなの?」 「誰が、ってのはわかる。普通は、な」 「ふうん?」  口の端についた生クリームを指ですくいながら、さも当たり前のように言った。  残念ながら、あたしはさっぱり追いつけていなくて、頭の中には記号ばかり浮かぶ。 「まず、あれが何だったのかってことから説明する気ない?」 「うーん……想像してるので大体あってると思うけど」  きょろきょろと、十六夜は周囲を伺って目配せをする。  朝早くに集合しているので、これでも声は絞って話している。  日頃から早く登校している数名の優等生たちは、本を読んだり睡眠をとったりと、あたしたちの声を気に留めている様子がないのが幸いだった。  ただし、内容が内容だけにあまり聞かれたくない話ではある。多少であればゲームだとか漫画だとかで誤魔化せるんだけど、深くは追求されたくない。 「……魔法ってこと?」  ドーナツを飲み下してから、十六夜にやっと届く程度の声で囁いた。  十六夜もあたしに釣られるように、手の平を口元にあててコッソリと言う。 「限りなく近い」 「…………」  こういった、あまりにも非現実的な話を展開された時、普通はどんな反応をするのだろう。昨日のあたしのように夢オチを願うパターンは多いと思うけれど、否が応でも信じざるを得ない時、普通はどうするんだろう。  あたしの場合は、十六夜の出現そのものが非現実的だったせいか、驚くほど自然に受け止めていた。あんな、天に瞬く星全てが流れ星と化したような光景を認めてしまえるのも、十六夜がそこにいるという事実が、現実が、あたしを変えてしまったからだ。  例えば、あたしもみんなと同じように記憶を塗り替えられて、十六夜ははじめからそこにいた、ってことになっていたら、多分話を聞こうともしなかった。  だけど、全てを知るにはあまりにも早い。 「十六夜は……その」  語尾がどうしても尻すぼみになってしまう。十六夜は魔法使いなのか、と聞きたくても勇気が出ない。  きっと、自分が他人と違うことを認めたくないんだ。昨夜のあれを魔法だと認められても、自分が深く関係しているとしても、あくまで自分は普通の人でいたかった。  知りすぎることが恐い。夕立が雨を降らせる様子によく似ている。  嵐のようにやってきては素早く過ぎ去った出来事。大地に水が溢れるのと同じで、知りたい気持ちは予想を遥かに上まわった情報を得て、知りたくない気持ちへと変わった。  机の古い傷をぼんやり見つめる。十六夜がチョココロネを堪能し終わっても、変わらず傷を見続けた。  十六夜はそんなあたしに気づいてか、底抜けに軽く言い放つ。 「ま、肩肘張る必要ないさ。俺がいることだし、ふとした瞬間に何もかも解決してるかもな」  ちらりと見上げた。  ふわりとした笑顔と視線が重なる。あたしへの気遣いがにじみ出る笑い方。  この人は優しい。こんな表情させてしまう自分が悲しいけれど、今はこの優しさに甘えさせてほしい。  彼はパンを包んでいた袋をコンビニ袋に放り込むと、ドーナツが一向に減らないのに目をつけ、 「いらないなら頂戴」  身を乗り出してあたしの机にまで手を伸ばしてきた。むろん、到達する前に叩き落とす。 「いらないなんて、言ってない」 「ちぇ」  心底悔しそうにそっぽ向いたあと、そうだと手を鳴らして鞄からノートを取り出す。昨日修行を積んだノートだ。 「とりあえず、最低限だけ覚えておいて」  そう言って、ノートと同時に取り出したペンケースからシャーペンを取り出し、ノックした。 「俺と、萱と、例のあれ……まぁ敵だな。それを構図にすると、だ」  ふたつ目のドーナツを口にしながら、あたしは彼の机の上を覗き込んだ。  十六夜は『萱』『俺』『敵』と書き込み、それぞれ対象から対象へ矢印を引いた。ちょうど三角形の頂点に名前がきている状態で、対角線上に矢印が乗っている。 「こんな感じかな。まずは、ここ」  トントン、とシャーペンの先で『俺から萱』の矢印にハートの保護・回収と書き記す。見慣れない単語。 「ハートって何?」 「萱が持ってる……ババ抜きのババみたいなもんさ」  ババですか。  どうしてそんな表現をするのか。疑問は、先ほどのふわりとした笑顔が蘇って即座に消える。  ……ありがとう。心の中で感謝した。 「次はここ」  『敵から萱』の矢印にハートが狙い? とした。そのまま『俺から敵』と『敵から俺』はクエスチョンマークを入れる。  口元をふさぎながらしばらく考え『俺から敵』に注意点を追記した。 「この『倒す? 倒さない?』ってのは何」 「動きにくいってこと。さっきも言ったけど、あそこにいるだけで相手が誰なのか、普通わかるはずなんだ。それが、わからなかった」 「わからなかったらどうなるの」 「どうなるっていうより、わからないこと自体が異常ってこと。もし萱の周りに不審者が現れたら教えて」  不審者ねぇ。  当然ながら、ぱっと思い浮かぶのは目の前の人物。周りの人の記憶を消して学校に侵入なんて、不審者と呼ぶに相応しい。 「もちろん、俺以外の不審者ね」  指差す直前に先手を打たれた。  浮いた手は、コーヒーのペットボトルを握りしめてごまかす。唇にあてると、コーヒーよりもミルク成分の強い香りがした。  そうこうしているうちに、教室が騒がしくなりはじめる。始業時間が迫っているようだ。   急いで解説を終えてほしいところだけど、まだ全部埋まっていない。『萱から敵』と『萱から俺』が残っている。 「大事なこと忘れてた」  十六夜がサササッと『萱から俺』に何か書きこんだ。  それを見てあたしは固まる。なぜならハートマークだったから。  同じ流れで『俺から萱』にもハートマークが。 「何してんの」 「物語のヒーロー&ヒロインは、結ばれてこそ王道ストーリー!」  満足そうな顔しながらひとりで盛り上がる。赤いペンでハートマークを塗ってしまいそうなほど楽し気だ。  こ、こいつは……。 「あら、アタシのどこが不満なのよ。彼氏にするにはもってこいの逸材でしょ」  きっと自分はひきつった顔をしてたんだと思う。十六夜はオカマモードで怒ったふりをしている。  そして、突然立ち上がるなり、 「顔も運動神経も申し分なし! 何が足りないって言うのよ」  なんて、仁王立ちしながら自己主張をはじめた。 「自分で言う? 普通」  十六夜は、世間一般で言うイケメンに属する顔立ちをしている。身長もそれなりに高いので、雑誌モデルと並んでも引けを取らないだろう。  言い寄られると有頂天になるのが女子ってものだと思う。でもこの人の場合、発言全てが冗談に聞こえる。自分で自分を褒めるあたりなおさらだ。優しいけれど損な性格をしている。 「普通かどうかなんてどうでもいいのよっ! それともアタシの隅々まで見てないからそんなこと言えるのかしらっ!」  十六夜は口を尖らせて、シャツのボタンに手をかけた。  これはまさか。 「もう、好きなんだからぁ」  恥じらいを装いながら、呆れるくらいの笑顔でボタンをおもむろに外していった。赤い布地が、Yシャツの隙間から顔を覗かせる。  ……前言撤回。こいつは損な性格なんて中途半端なもんじゃない。ふざけまくった、ただの馬鹿だ。  数週間ほど前の悪夢も一緒に振り払うべく、広げっぱなしのノートを咄嗟につかみ、 「脱ぐな!」  スパーン! と、清々しい音の紙ビンタを炸裂させた。  はじめて会った時と同じように、教室中の注目を集めることになったけれど、かまうもんか。  雨が窓を打ちつける音とひそひそとした声が耳に届く。それほど教室が一瞬にして静かになったということだ。  見たければ見るがいい。反省しないこの男が悪い。  タイミングが良いことに、十六夜の後ろから登校したての援護部隊が、気配を殺して彼に忍び寄っていた。  あたしは目配せを一発。彼女は耳にはめたままのイヤホンを引っこ抜き小さく頷く。そして、手にした鞄を大きな背中目がけて振り落とした。 「喧嘩したのを忘れたのかこのドアホ!」  一撃必殺。明るい髪は跳ね上がり、最後のボタンに取りかかっていた手が宙に浮いた。 「撫子さん。結構鈍い音が聞こえましたけど」 「そりゃそうでしょ。英和辞書が入ってるし」 「知っててやったの?」 「当たり前でしょ」 「……そりゃねぇぜ」  どこかで聞いたことあるようなセリフを残し、十六夜は無言で沈没した。  「何て言うか……絶対的な差を見せつけられた気がする」  撫子は足元に鞄を無造作に置く。金属でも入っているのかゴトリ、という音がした。  思わず崩れた撫子の鞄を手にする。彼女らしい、余計な飾りつけをしていない鞄は、今日の授業編成に似つかわしくない重量感を放っていた。よくよく見てみると、いびつな形をしている。 「なんでこんなに重いの?」 「ノルマがあるのよ。ノルマ。濡れてなきゃいいんだけど」  鞄のファスナーを開けると、授業に必要な教科書類がすみに追いやられ、それを上まわる量の漫画がみちっと詰まっているのが見えた。 「英和辞書なんてレベルじゃないんじゃ」 「そうかもねー」  湿った毛先をハンカチで丁寧に包みながらサラリと流す。うずくまった彼には目もくれず、今度はスカートの水分を取りにかかった。  ちょっとだけ十六夜が哀れに思ったけれど、本人が悪いだけにあんまり同情する必要はないと判断。途切れた話題を持ち出すことにした。 「……で? 絶対的な差って、何の話?」  話を聞きながら辺りを見渡す。遠巻きに見ていた人たちは早々と通常モードに戻り、あちこちで談笑していた。きっといつものことと捉えてくれたのだろう。ありがたい。 「昨日教えてくれた人」  赤茶けた髪と切れ長の目が脳裏をよぎる。  今更ながら、邪羅さんの佇まいは独特だった。同じ歳であることが未だに信じられないほど、大物の空気が漂うというか。  彼がこちらを見るだけで、自分が何を考えているか難なく見破られてしまいそうだ。何重に取り繕ったって、あっけなく剥ぎ取って真相に辿り着きそう。初対面なのに、そう思わせる力があった。 「自分で自分のこと賢いって思ってたけど……それがどれだけ生ぬるかったか、昨日思い知ったわ」 「撫子だって、中間テストの結果凄かったじゃん」 「テストなんて力技でどうにでもなるじゃない」 「それは頭のいい人の言い分でしょ」 「基礎がとことんしっかりしてる人とあたしじゃ、雲泥の差よ」  彼女は親指の爪を噛んだ。悔しいのかと思いきや、形の良い唇は笑っていた。 「自分じゃ理解できても、人に教えるのってどうしても苦手なのよね。その点、邪羅君は凄かった」  「あの解説には圧倒されたね」  固い結び目を解くように、こんがらがった知識を土台から叩き直した。何が間違っているかも理解していない人へ教えるのって、相当骨が折れる作業のはず。それをいとも簡単にやってのけた。  学校の先生が、みんな邪羅さんみたいな人だったらいいのに。本気でそう思った。 「本当に頭いい人っていうのは、ああいう人のことを言うのよ」 「確かにそうかも」 「蘇芳さぁ……あの人どこの高校?」  無反応。 「おーい。十六夜君」  あたしは膝のすぐ近くに沈んでいる十六夜の背中を軽くつついた。衝撃を受けたと考えられる場所は避けておいた。多分、肌の色がおぞましい色に変化しているだろうから。 「大丈夫かね」  重ねてつつくと、撫子はパタパタとハンカチを振る。 「あのくらいでダメージ受けてるようじゃ、蘇芳に萱は渡せません」 「撫子さん、一体何をおっしゃるの」  というか、何の話ですか。  そんな疑問が浮かぶと同時、十六夜は勢い良く立ち上がった。 「復活!」 「おかえり単細胞君。復活ついでに質問に答えてもらえるかな」  十六夜は額に汗を浮かべながら腕組みをして撫子を見下ろす。 「松高……だな」 「げ」  あたしと撫子は顔を見合わせ、目をまるくした。  自分たちの更科高校も標準より上ではあるけど、この辺りの高校の中でも群を抜く知能集団が松高こと松原高校だ。制服を見たことなかったから、服装じゃ判断つかなかった。 「あぁいう人が行けるのか松高」 「頭良いはずだよ」  どうして邪羅さんみたいにデキる人が、十六夜の友達なんてやってるんだろう。それが不思議でならない。 「ねーさん、邪羅と一緒に帰った時、学校の話しなかったのか?」 「それがさぁ、昨日はそこまで頭まわらなかったんよね」  彼女はそう答えて、艶やかな黒髪を撫でつけた。慈しむように丁寧に梳く様子を見て、あたしは違和感を覚えた。  ……邪羅さんへの敗北宣言した時に見せた表情といい、今回の仕草といい、何だか今日の撫子は機嫌が良さそう。 「何か良いことでもあった?」  浮かんだ疑問をぶつけると、彼女は「えっ!?」と目を大きく見開いて頬をほんのり染める。  予期していなかった反応に面食らった。当の本人も、自分のリアクションに戸惑っているのか口元を隠している。  ……はっはぁーん。  あたしは十六夜を手招きして顔を近づけさせた。 「十六夜さん。見ました? あの反応」 「萱さん。思いっきり怪しいですわね。乙女の顔してますわよ」 「邪羅さんから詳しく聞き出さないと」 「今夜張本人とっ捕まえておこうかしら」 「何もないって!」  抗議するのは赤い顔。  説得力ゼロだ。可愛いヤツめ。 「何もないならどうしてそんなに照れてるの」  口どころか顔中がこれでもかというくらい緩む。ニヤニヤが収まらない。  彼女は視線を反らせた。黒い瞳が潤んでいて、思い切り抱きつきたくなるほど可愛い。 「褒められただけよ。髪の毛」 「何て言われたの?」 「『綺麗な髪ですね、良くお似合いですよ』って言われて、触られた」 「いやーん!」  やっぱり我慢きかなかった。あたしは立ち上がり、撫子へぎゅうぎゅうに抱きついた。微かに舞った黒髪から、高級そうなシャンプーの香りが漂う。痛んだ箇所が見当たらない毛先をつまみ上げると、浴室で丁寧に髪の手入れをする撫子が頭に浮かんできた。  自分が入れ込んでいるものを褒められるのって、この上なく最高な気分だろう。彼女の心情を想像すると、こちらも胸が躍ってしまう。 「本当に何もなかったのよ。でも、褒められてから髪の毛が気になっちゃって、さ」  平然を装ってはいるけれど、言葉の節目節目に嬉しさが溶け出している。  抱きついていた腕をほどいて、彼女と視線を重ねた。  あたしはまとまりにくい髪をしているから髪を伸ばしにくい。だから、彼女の髪は凄く憧れてしまう。黒髪ロングって、かっこいいよね。  「口説きのテクニックとしてアリか」  十六夜が女の子独特の話に独り言のような横やりを入れてきた。眉根を寄せてしばらく考え込んだあと、あたしを指差し一言。 「よし! 萱も髪を伸ばすんだ」 「アンタは二度とあたしの髪を触るな」  あたしは冷ややかに応じた。  昨日、髪をぐちゃぐちゃにしただろうが。ましてや口説かれたくもない。  無言で十六夜を睨みつけると、それにしても、と撫子がこちらに向き直った。 「学校来るの、ヤケに早くない?」  撫子は首を傾げて聞いた。普段は撫子より後に登校するから、不思議に思うのも当然だ。  昨日変なヤツに襲われた、なんて言えるわけないし。どうしよう。  手助けを求めて十六夜を視線をやると、彼は机の上にあるノートを見せつけた。 「復習だよ。ほら」  表紙を強調するようにノートを突き出す。心なしか真ん中から曲がっているそのノートには、きっちり『数学』と書いてあった。 「復習ねぇ」  納得していなさそうに、さらに首を傾げ、その後恐ろしいことを言う。 「小テストの勉強もいいけど、もうすぐ期末試験があるのわかってる?」  自分の顔が引きつる音がした。 「……あ、頭の片隅には置いてるけど」  あまり思い出させないでほしい。これが本音。 「中間テストも理数系、あんまり良くなかったんでしょ? 今回は日本史とかもあるし……高校初の期末が赤点になっても知らないよ」 「うっ」  痛いところをつかれた。何も言い返せない。 「ま、まぁ。期末が終われば夏休みだし。これこそ高校初じゃね?」  十六夜が肩をすくめながらフォローしてくれた。 「期末さえクリアすれば夏休みか」  呟きながら外に続く窓を見る。本来なら校庭がはっきり見える景色なのに、今日は境界線が曖昧だった。校庭と校舎の間に植えられている樹は幹が細く、大きくしなっていた。  あたしは濁りを見せる窓に重ねて、真夏の青い空を思い浮かべてみる。  きっと窓は全開。湿気を含んだ風とセミの大合唱が目一杯教室に垂れ込んで、うだるような暑さになるんだろう。想像するだけで汗が滲んできそうだけど、夏がくるのはすごく楽しみ。  十六夜が言ったように高校初の夏休みに入るんだし、贅沢なくらい遊びつくしたい。  ポンと名案がひらめいた。 「ねぇ、四人で花火大会行かない?」  あたし、撫子、十六夜、邪羅さん。と、彼らにリクエストメンバーを指折り伝えた。何で邪羅さんがそこに入るんだ、とでも言いたげな撫子が軽く睨んでくる。あたしの思惑なんてバレバレだと思う。 「わかったよ……ただし! 期末はがんばってよね」  拗ねたようにそっぽ向きながら渋々承諾する撫子。同時、始業のチャイムが学校中に鳴り響いた。  翌日。天気予報が外れた日、あたしと十六夜は駅の時計台で待ちぼうけをくらっていた。  繁華街から逆行した場所に位置するこの駅には、はじめて足を運んだ。住宅街の中心という立地条件なうえ、ちょっとしたショッピングビルもあるのでかなり大きな駅だ。その中にサッカーグラウンド並みの広場があった。待ち合わせ場所として指定されたのは、そこ。 「邪羅さんまだかな」  隣の十六夜へ問いかける。広場の中心に時計台があったので、目印にぴったりだと思い、ふたりで立っている。  広さのわりに人はまばらで、閑散としている。 「用事があるとは言ってたけど……ちょっと遅いな」  広場には買い物袋を下げた人に混じって、灰色の制服がちらほら見え隠れしている。残念ながら、待ち人の姿は見えない。  無駄になった傘を時計台に立てかけて、空を見上げた。時計の針は待ち合わせの時刻をとうに過ぎている。  今日ここにきたのは、花火の約束を取りつけるためだ。電話やメールでも良いのだけど、何となく直接伝えたかった。  とはいえ、ただ待っているだけなのも手持ち無沙汰なので、昨日から考えていたことを、思い切って口にすることにした。 「ねぇ十六夜。聞いてみたかったことがあるんだけど」 「何?」 「人の感情を変えることはできるの?」  あの日の夜。十六夜は人の記憶を変えられると言った。  それなら、好きでもない相手を十六夜の力とやらで好きにさせることはできるのか、気になった。  十六夜は時計台にもたれたまま、腕を組んでしばらく考えたけれど、 「記憶しか変えられないから厳密に言うとできない」  首を振って、そう答えた。 「そっかぁ」 「ただし、仕向けることはできるけどね」 「仕向ける?」 「例えば、高校ではじめて会った人がいたとする。初対面なわけだ。で、その人と話してみた結果、初恋の相手っていうのが判明したらどうなる?」 「運命的な再会ってこと? 甘い展開だよね。好きになりやすいんじゃない」 「だろ? 記憶を変えられるっていうことは、そういった思い出を勝手に作ることができる。感情を直接どうこうはできないけど、仕向けることはできる」  なるほどね。  本当は会ったことがなかったとしても、そういう演出ができてしまうのか。  頷きながら感心するあたしに冷ややかな視線が突き刺さる。 「横着しようったって、そうはいかないぞ?」  十六夜は、あたしの悪巧みを勘ぐったように言い当てた。 「何の話かなぁ?」 「声、裏返ってるし」 「うるさい!」 「まぁいいんだけどさ……撫子ねーさんならまだできるけど邪羅は無理だぞ」  「撫子には力使ってもいいけど、邪羅さんには使いたくないってこと?」  あたしが軽く噛みつくと、十六夜はもたれた体を起こしてあたしに向き直った。推し量るような視線が、じっと瞳を見つめてくる。 「な、何?」 「邪羅は萱に近い」 「ん?」 「邪羅の場合は、萱と普通の人のちょうど中間みたいになる。記憶を変えたとしても、短時間しか効かないんだ」  ものすごく含んだ言い回し。喉の奥に何か引っかかる。  でも、薄々感じていたからすぐに答えは湧き出た。いくら松高に通ってるとはいえ、彼の頭の良さは常人からかけ離れている。  ――おそらく邪羅さんも十六夜と同じ。同じような力を持った人なんだ。  十六夜をじっと睨みつけてみる。そんな話聞いてなかったぞ、という念を込めて。 「……そういうことですか」 「そういうことです」  彼はこともなげに肯定した。  少しでも邪羅さんと撫子の距離が縮まれば良いと思った。こんなことに十六夜パワーを期待するのは図々しいけど、撫子の喜ぶ顔は、やっぱり見たいものだ。  でも使えないんじゃ仕方がない。花火大会に期待しよう。 「もうないよ。萱」  考え込むあたしに、十六夜が静かな声をかけてきた。 「ねーさんや邪羅を含め、もう記憶に手を出すつもりはない」  街のざわつきに消えいりそうなほど細く、でもしっかりとした呟き。 「誰だって土足で踏みにじられたくないでしょ。プライベートな空間だからね、記憶って」  髪が風で煽られ、十六夜の表情を隠した。  ……もしかして。  あの日の夜、十六夜があたしへ自分の行いを告白した時、とても苦しそうにしていたのを覚えている。それに、なかなか真実を話そうとしなかった。 「記憶を変えるの、嫌だったの?」 「まぁね。でも俺にしかできないからね」  仕方なかったんだ、と苦笑いを浮かべた。困っているのが手にとるようにわかる。  あたし……バカだ。浅はかな自分の考えを悔やんだ。  力を使う人の気持ちも、力を受ける人の気持ちも考えず、自分の理想を作ろうとしたんだ。なんてひどいことを考えたんだろう。 「ごめん。十六夜」  素直に頭を下げた。あたしが悪い。 「萱が謝ることはないよ。だからまぁ、邪羅の記憶を変えることは諦めてもらいたいけど」 「もう言わないよ」 「助かる。って言っても、やんなきゃいけない時はやんなきゃいけないんだし。結果として俺がヘタレってだけだ」 「それは全力で肯定する」 「……否定してよ」  彼はがっくりうなだれると、ひと呼吸置いて爽やかに微笑んだ。 「本当はみんなと会うのも、はじめましてからやりたかったんだ。はじめまして蘇芳十六夜です、ってね。いくら手っ取り早いからって、わざわざ記憶をすりかえて潜入する必要なんてないって思わない?」 「そうだよね。数ヶ月前なら入学式だし、そん時から居れば良かったんじゃ」 「俺もそう思う」  ふたり同時に笑いあう。過去のことを言ったってどうしようもないけれど、何だか無性におかしかった。  十六夜と話していると、穏やかな空気が流れる時がある。彼の性格が空気まで染めていくのかは知らないけれど、あたしはそれが心地よくて好きだった。  心臓が静かに脈打つのを感じながら、いつまでも噛み締めていたかったこの時間。  そう長くは続かなかった。  ――待ち望んだ人が現れる前に、大嫌いな耳鳴りが辺りに響きわたる。  時間というのは、音にも影響があるらしい。  耳鳴りがぴたりと止んだ直後に訪れた世界で、例の空間へ巻き込まれたと気づかされた。  比喩でもなんでもない真の無音。密閉された部屋に閉じ込められたような、嫌な閉塞感が全身を襲う。普段感じたことのある静寂が、どれだけ雑音にまみれているのか、改めて認識させられた。 「十六夜、これって」  隣の人物を覗き込むと、彼は大きな瞳をさらに見開いて目を走らせていた。微妙な違いをも逃さないとした厳しい目つき。あたしはもう一度口を開こうとしたけれど、ほんの……ほんの些細な音を耳が拾って、即座に視線を向けた。  方角は真正面。音はおそらく――靴の音。 「誰かいる?」  声をひそめて見据えた。  カツン、カツン、と次第に近づく音に警戒していると、人の隙間を縫うように移動する影を見つけた。 「あれは……」  三十代くらい、だろうか。緑の目に彫りの深い容姿、白い肌をした女性が人混みをすり抜けてきた。洋画にでも出演していそうなその風貌は、明らかに日本人ではない。 「怠惰《たいだ》か?」  十六夜が低く問う。  怠惰と呼ばれた女性は、体の線を強調する紫のドレスに身を包み、あたしたちを見下すような笑みを浮かべていた。十六夜の知り合いかと聞きたい気持ちはあるけれど、その眼差しを見るかぎり、あまり触れないほうがよさそう。  彼女はさほど離れていない距離で立ち止まると、真っ赤な唇をペロリと舐めた。 「久しぶりね、叡智《えいち》」  歌うようなハスキーボイスは十六夜へ楽し気に語りかける。その声とは裏腹に、目は少しも笑っていなかった。  怠惰は時間をかけて、十六夜の全身くまなく凝視する。 「……この前のあれは怠惰の仕業か?」  十六夜は不快感を露骨に表しながら、一歩前に踏み出る。  長いまつげが揺れる度に空気がみるみる凍っていくようで、居心地が悪い。  まだ何も起こっていないのに、指先が震えた。両手をぎゅっと握って押さえつけようとしたけれど、収まらない。 「何のことかわからないけど……私じゃないわよ。そのくらい、叡智だってわかっているんでしょう?」 「だったら、何故ここにいる?」 「決まってるじゃない? 挨拶に来たのよ」  そう言って彼女は、エメラルドの瞳をこちらへ向けた。  べっとりとした粘着質な視線が、全身に絡みついて気持ち悪い。自分の身体に腕をまわして、少しでも落ち着こうとした、その時。  怠惰の姿が急に消えた。  ――嘘。  驚きのあまり、声さえ出ない。  辺りに目を走らせた……見当たらない。  人が、消えた?  ひと通り確認し、改めて彼女のいた場所へ目を凝らした途端、紫色が視界を埋めた。 「わっ!」  思わず驚いて仰け反ると、目の前には怠惰の姿。 「あらごめんなさい、驚かせるつもりはなかったの」  ウェーブのかかった長い金髪を揺らせながら、クスクスと笑い出す。  厚みのある赤い唇は白い素肌と組合わさることによって、より存在感を浮き彫りにした。妙に気味悪く感じ、頭の先から足先にかけてびっしりと鳥肌が立つ。  当たり前だけど、人が消える瞬間なんてはじめて見た。もちろん、何もないところから人が現れる瞬間も。  得体の知れない何かが目と鼻の先にいる。体が自然と後退りをした。  だけど、怠惰はあたしの気持ちなんておかまいなしに、じわじわと距離を詰める。 「はじめまして。私は怠惰。あなたに会えるの本当に楽しみにしていたのよ」  見せかけの笑顔を浮かべ、怠惰は丁重に会釈をする。  顔を上げて艶かしく首を傾げた時、同じく金に近い色をした髪の主が間に滑り込んだ。 「萱に近づくな」  普段の十六夜からは想像もつかないほどの尖った声。  触れられる近さに背中があるのに、どうしてだろう。圧力を感じて、これ以上近寄るのが躊躇われる。 「ハートを護るナイトってとこかしら。叡智ったら、随分かっこいいじゃないの」 「おまえに褒められても、これっぽっちも嬉しくない」 「心の底からの褒め言葉なのに……冷たいのね」  怠惰が長い髪を両手でかきあげると、夏を迎えつつある陽射しがキラキラと反射した。  ひとつひとつの仕草が計算しつくされたように色っぽい。 「よろしくね萱さん。叡智だけじゃ遊び足りないでしょう」  彼女は十六夜越しに語りかけてくる。  よろしくなんて見え透いた嘘に、答える余裕はなかった。  そんなことよりも、先ほどから気になる叡智という聞き慣れない単語。  一体それが何を指しているのか、何となく悟ってはいる。ただ……口にしてしまうと地雷を踏むような予感があって聞けなかった。  だけど、 「ね、叡智。私もお遊びに混ぜてちょうだい」  怠惰は十六夜に向かって『叡智』と呼びかける。  間違いない。彼女はあたしの知らない十六夜を知っている。そして、ハートというもののことも。  ……これは、何を意味しているのだろう。怠惰は、わざと叡智と連呼しているようにも感じる。  彼女が何を企んでいるのか見当もつかなかったけれど、あたしは意を決しておそるおそる尋ねた。 「叡智って、十六夜のこと、なんだよね?」   彼の肩が、ぴくんと跳ねた。 「何も教わってないの? あなた、ハートでしょ?」  十六夜に変わって答える怠惰。驚いたように口元を押さえた。  あたしの顔色を読み取ってか、呆れたように眉をひそめる。 「まさかハートのことも知らないの?」 「…………」 「よくこんなところに平気でいられるわね。逆に感心しちゃう。でも、知らないで済まされる話じゃないのよ?」  責めるような目つきに、あたしは反論すらできなかった。  あくまで自分が望んだ話。優しい彼が、受け止める器のないあたしを気遣ってくれただけのこと。  ――知らない、で済まされる話じゃない。  そんなこと、他の誰でもない、あたし自身が一番良く理解している。 「やめろ、怠惰」 「過保護すぎるんじゃないの叡智。いくらなんでも怠慢でしょ。私が代わりに教えてあげるわ」 「やめろと言っている!」  怠惰に掴みかかろうとする十六夜。  彼女は間一髪で十六夜の腕を避けると、裾の長いドレスを翻して後ろに跳んだ。ヒールの高い靴が、テンポ良く音を渡らせる。 「そんなに感情をむき出しにするなんて。叡智ってば、こっちにきてから面白い奴になったんじゃない? まるで」  もったいぶるように口を噤んで、口角をつり上げた。  怠惰は十六夜へ伝えるそぶりを見せながら、あたしに向かって喋っている。次のセリフを強調したいために、わざと話を区切ったのだろう。  見かけ上は、ただの笑み。その視線に絡まった人だけがわかる、笑みに隠れた黒さ。  聞かないことを選ぶ隙なんて、どこにもなかった。 「まるで――本当に人間になったみたい」  怠惰は一体、何を言ったのか。  辞書で調べる必要もない簡単な単語の組み合わせなのに、理解できなかった。  麻痺したという感覚に近い。一瞬で脳をやられ、考えるということにブレーキをかける。かといって聞き返すのは、耳が嫌がる。  あまりに苦しくて足元から崩れてしまった時、まともに呼吸していなかったのに気づいた。  浅く息を吐くと、怠惰の言葉が血の流れに乗って全身を巡り出した。 「……人間になったみたい、って、え?」  あたしは掠れた声で反芻した。唇が痺れて上手く言えない。自分の口で繰り返しても、にわかには信じられなくて。  だけど、十六夜の背中から滲む冷たい空気が、紛れもない真実だと告げている。 「怠惰、おまえ」 「怒った顔も堪らなく素敵ね……ゾクゾクするわ」  彼女が挑発した瞬間、鈴のような透き通った音が鳴り響く。すぐそばで、不意に現れた杖が放物線を描いて怠惰を狙った。  彼女は笑みを絶やさずに片腕で受け止める。  より硬く、杖が鳴いた。 「今すぐここから立ち去れ怠惰!」  先端を突きつけて十六夜が叫んだ。勢い良く踏み込みながら杖を繰り出すけれど、怠惰は華麗に避ける。  相反するような嬉々とした笑い声が目一杯反響した。 「そう焦らないでよ。萱さんに紹介したい人がいるから来たのよ。もっと大勢で遊んだほうが面白いでしょうし、ね」 「紹介したい人……?」   十六夜の攻撃を避けた怠惰は、軽やかに跳びあたしたちと距離をとった。  時計台の影を踏みつぶし、長い髪をたくし上げる。豊かなブロンドがふわりと舞い、プラチナの粒子が散ったその瞬間。  胸が、無条件で震えた。  思い出すことさえ叶わない。懐かしいという感情も置いてきた。そんな古いモノトーンの香りが、突然匂った。  意識の隙間に何かが混ざり込む。目を背けたくなるほどの何かを訴える。気持ちの正体は不明。あたしが単純に忘れてしまったのか。  そこまで思って、自分で驚く。  ……忘れた? 何を。  胸に手をやり、ぎゅっと拳を握った。  直感だとしても、何故忘れたと感じてしまったのだろう。思い出せない古い香りが、あたしに忘れたと思わせたのか。  どちらにせよ、何も汲み取れない。頭に紛れる度に心臓が押されて苦しいだけ。  でも、ひとつわかることがある。それは気持ちの根元。  あごを上げて上空へ眼を凝らした。小さな黒い点がぽつりと見える。雲と雲に挟まれ、ひと目だと鳥に見間違えそうだけど。  目を閉じて、開けた時には異なる形。  ――人間だ。  人間が、落ちてくる。 「いざ……」  離れてしまったうしろ姿に呼びかけようとして、声を飲んだ。  一度、二度、瞬きするごとに劇的に大きくなる。さっきまで腕や脚のシルエットしか見えなかったのに、今は目や口の輪郭がはっきりしている。  落ちる速度が早い。もう、避けられない。  膨らむ人影になす術なく、しゃがみこんだまま焦点の定まらない瞳で眺めていると、 「お待たせしました」  青い空と黒い点の前に灰色が被さった。  はっとしてピントを合わせる。そこには線の細い制服と赤茶色い髪をした背中が立ちふさがっていた。  つい先日聞いたばかりの、落ち着いた丁寧な口調。  ファミレスでノートに向かい、真剣に数学を取り組んだ時と同じ声。 「邪羅、さん」  今日、ここで会う予定だった人物の名を呼ぶと、彼は振り返ることなく背中で返事をした。 「遅くなって申し訳ございませんでした。教師に捕まっておりまして」  邪羅さんがここにいる。  あたしの考えていたことは正しかった。  十六夜が、邪羅さんはあたしに近いと言った。あたしに近いから記憶が短時間しか消せないと。  つまり、十六夜と邪羅さんは同じ類いの人。いや、違う。  ――十六夜も邪羅さんも、人じゃない。  視線を落として、砂利が点々とついた自分の膝を見つめた。  積み重なっていく話を整理したいところだけれど、あたしに考えるゆとりは与えられていないらしい。  垂れた前髪の上に、金属の棒が見える。その向こうには邪羅さんのかかと。  棒を辿って天を仰ぐ。  太陽に重なる邪羅さんの手には、長い槍が握られていた。身長よりも高いそれを握り、細い枝を扱うように軽々と振り上げる――同時。  金属同士がぶつかる硬い音が響いた。  邪羅さんの真上には、真っ黒い塊。 「重っ……」  塊を槍の柄で受け止めた邪羅さんは、苦しみの声を漏らすと塊ごと大きく突き放した。  こちらの様子に気づいた十六夜が大慌てで戻り、立ち上がるあたしを背中に庇った。 「ごめん! 萱」 「僕には何もなしですか」 「感謝はしてる」 「……少々ひっかかる言い方ですが、まぁ良いでしょう。そんなことより気にしなければならないことがあるようですしね」  長い槍で風を斬って、邪羅さんは十六夜の前に踊り出る。ふたりの奥には邪羅さんに吹き飛ばされた、暗闇のような人がいる。  真っ先に目についたのはサラサラの黒髪。次に目についたのは、握りしめた漆黒の剣。全身が黒で覆われ、素肌が見えるのは手と顔のみだった。  体格や身長から男性だとわかるけれど、その目鼻立ちは男性なのか女性なのか判別つきにくい。    表情は、無表情を通り越して『無』に満ちている。そう感じてしまうのは、微動だにしない瞳が、陽の光さえ全く太刀打ちできないような暗さを帯びているからだ。  そんな両の目が、ゆっくりとした動きであたしを捕らえ、視線が交わった瞬間。  世界からあたしたち以外が消し飛んだ気がした。  音も熱も届かない場所に呆然と立ちつくし、そこに在るのは感情だけ。  愛しさ、尊さ、慈しみ……たくさんの正の感情と。  哀しさ、淋しさ、恐れ……たくさんの負の感情。  色に分けるなら白と黒。温かく冷たい様々な感情が体へ一気に流れ込み、渦巻き、あたしを飲み込んだ。   感情の濁流に翻弄されながら、あたしは本能の導くまま、あることを確信した。  非常に曖昧で、あやふやな根拠。だけど疑う余地さえない、確かなこと。  あたし――この人知ってる。 「この前攻撃してきたのは、おまえか」  十六夜が杖を突き出して黒髪に問う。彼は薄い唇を硬く閉ざしたまま動かなかった。  そんな彼を見ながら、邪羅さんは肩をすくめる。 「変な気配を持った人ですね。お知り合いですか、十六夜さん」 「いや、知らない。邪羅はわかるのか」 「あなたが知らないことを、僕がわかるわけないじゃないですか」  後ろにいるあたしに届くか届かないかくらいの声量で会話をかわしていると、怠惰が黒髪の隣に現れ、彼の肩へ手を置いた。 「紹介してあげる。新しいボーイフレンドよ。名前は魁《かい》。私がつけたのよ、良い名前でしょう」  怠惰は、魁のあごに赤い爪を滑らせたあと、指をおもむろに唇へ運んで舐めた。お酒に酔いしれるように恍惚としながら、うっとりとした流し目をこちらに向ける。 「彼を萱さんに紹介したかったのよ」   ――魁。  血が通っているのか勘ぐってしまうほど、造形は人形と例えるに相応しい。むしろ人形が動いているのかと感じてしまう人工的な美しさ。容姿が整いすぎると、かえって人から遠ざかると聞いたことがある。魁はそんな顔をしていた。  何度見ても初対面。こんな綺麗な人、一度見たら忘れられない。  でもやっぱり、どこかで会ったことある。  戸惑いが心細くて、腕まくりしている十六夜の腕を握った。何か握っていなければ、魁に吸い寄せられてしまいそうで恐かった。 「そいつを萱に会わせる理由がどこにある」 「理由? 私に理由なんてないわよ。魁と……萱さんにはあると思うけど」  十六夜は、怠惰と魁を交互に睨んでから急に振り返った。 「萱、大丈夫か」  あたしの様子を調べるように、茶色い瞳が慌ただしく上下する。あたしは心配をかけたくなくて、掴んだ腕を離して大げさに手を振った。 「あたしは大丈夫」 「そう言ってられないかもしれませんよ」  あからさまな強がりを、邪羅さんが上書きした。  一体何を指しているのか。答えは明白。剣を持ち直した人物がいるからだ。 「来ます!」  邪羅さんも槍を構え直す。ぎゅっとした緊迫感が辺りに敷き詰められた。  そして、空間がゆらり揺れると同時。魁が大地を蹴った。  無駄のない動きで駆ける姿は、靴音さえ後ろから追いかける。  目と剣の矛先は――あたし。 「くっ……!」  目標に届くより早く銀の光が走った。剣を受け止めたのは、長い杖。 「萱に手を出すな」 「オマエには関係ない」  十六夜は苦しみを滲ませて剣を弾く。   魁は動揺もせず、払われた剣を翻して踏み込んだ。 「おまえは何者なんだ」 「関係ないと言っている」 「ハートを狙ってどうする!」  十六夜は細い杖で再度受けたけれど、魁の勢いは強い。  靴を地面に擦りつけながら、十六夜の体は大きく押された。 「元からハートはオレのものだ」  抑揚なく言い放ち、魁は剣を引く。  噛み合っていた力が突然消滅し、十六夜はよろけた。すぐさま体勢を整えたけれど、魁は間合いを取っていて、そこにはいなかった。 「元から? 一体どういうことだ」 「十六夜さん! 怠惰が来ます! 魁は僕が!」  十六夜が疑問を口にすると、大きな声で邪羅さんが言葉を被せた。  あたしたちと距離を取った魁の背後――そこには片手を空に掲げた怠惰。長い髪が風もなく舞い上がると同時、魁が姿を消した。  彼女の手には蛍火のような無数の光が集っていた。日中なのにも関わらず、光は主張を失わない。  怠惰は厚みのある唇をぺろりと舐めると、躊躇することなくあたしたちに向かって光を投げつける。予測していたのか、十六夜は遥かに上まわる青白い光を生み出し――相殺。炸裂した。  怠惰は息つく間も与えてくれない。辺りが光で霞んでいるにも関わらず、目をくらませるような赤い光の球を真っ直ぐ解き放った。 「怠惰……一体何を企んでいる」  十六夜が杖を突き出すと、見えないバリアが怠惰の魔法を弾き返した。だけど、怠惰は動じることなく、生み出した魔法の球を自らの手で引き裂く。力は瞬く間に霧となり散った。 「企むなんて人聞き悪いわね。あなたたちと同じで、私たちも協力しあっているだけ」  何もない手のひらに、息を吹きかける怠惰。  吐息はみるみるうちに色づけられ、幾多の宝石が宙に現れる。太陽の光を反射し、自身が持つ美しさを存分に輝かせて上空へ飛び散った。 「私も魁も目的があったの。魁はハート」  怠惰が手首をひねると、黒光りする鞭が出現した。  腕を大きく振って鞭をしならせ、あたしたちを脅しかけるように地面に叩きつける。その音に反応するのは、青空に散らばった宝石。模様とみまがうほど空にびっしりと浮き、息づくようにまたたいた。 「私の目的はね、あなたなのよ。叡智」  空気を斬り、鞭を再び叩きつけた瞬間、宝石が怪しく光った。  怠惰が薄く笑う。 「私は――あなたを消しにきた」 「はぁ!?」  宝石の群れが牙を向く。  ガラスの砕ける音が反響すると同時。怠惰の号令と共に、宝石は落下する。  光をまき散らす様子は、まるで霰。だけど崩れていく宝石は、怠惰の鞭に従うとうねりをもたらす嵐に化けた。 「頭おかしくなったんじゃないのか!」  散らばる宝石は、次第に集まり渦となる。個別の意志を持つように、あたしたちに狙いを定めた。 「私はいつだって正気よ」  「正気なら消そうって発想が出るわけないだろ!」  迎えるのは正方形のアーチ。吹きつける嵐を真っ向から受け止め、あたしたちを守る。  豪風に包まれ髪も服も乱れる中、ふたり分の大きさしかないアーチだけでは防ぎきれず、背後に溢れた。  あたしは嵐に釣られて振り返り、そして絶句した。  加速する宝石の集団は、広場の入り口へ一直線になだれ込む。その方向は、談笑したまま微動だにしない女性たちの場所とぴったり一致。  頭から一気に血の気が引いた。 「十六夜止めさせて! このままじゃ街の人が!」  あたしは大急ぎで十六夜の腕を掴んで、女性たちを指差した。 「あの人たちが嵐に巻き込まれる!」  慌てるあたしとは対照的に十六夜は取り乱さない。 「他の人たちに影響は出ないから」  そう、真正面を見据えたまま説明した。  恐る恐るもう一度振り返る。  光を乱反射する宝石は、勢いをそのままに人々を飲み込んだ。でも。 「――何も、起こってない」  あたしは自分の目を疑った。  距離があるから細かい部分までは確認できないけど、彼女たちは無傷だった。髪や服どころか、手から下げたビニール袋さえピクリとも動かなかった。  もしかして、彼女たちが動いていないのが理由なのかもしれない。握ったままの十六夜の腕を離すと、彼は肩越しに笑顔を見せた。 「街の人の心配はいらない。それよりも……俺たちのほうがちょっとヤバい」  あたしと目を合わせたのも僅かな間。しかも、どことなく切羽詰まったものを感じた。 「ようやくわかった? 叡智」  怠惰が指をパチンと鳴らす。指先に灯った光が瞬時に消え、怠惰を囲む六つの円が地面に描かれた。 「私は本気。本気であなたを――」  円の中心が動いた。足先からパーツが徐々に組み上げられ、形を成し、現れたのは闇の豹。息も絶え絶えに、怠惰と同じエメラルドの瞳をこちらに向ける。 「――消しにきた」  ひと言。上気した場を凍らせるのは、たったひと言で十分だった。  怠惰と豹。双方の瞳は殺意をむき出しにする。言葉に込められたものは、本心に他ならない。 「聞きたいなら、何度でも言ってあげる」  怠惰の指が、飢えた獣を愛おしそうに撫でた。感触を確かめるように体毛をすくと、彼女はスッ、と目を細める。 「何トチ狂ったこと言ってるんだよ。俺を消すことが何を意味するのか、わかっているだろ」  十六夜が一歩、また一歩と前進する。怠惰を咎める声は相手を見事に否定しているけれど、あたしと徐々に離れる姿は彼女の言葉を引き受けた証拠だ。 「消すのがタブーってこと? そんなのどうだっていいわ。あなたさえいなくなってくれるなら、どうだって……!」  自分の体は怠惰の視線から外れているというのに、彼女の鬼気迫る感情が皮膚に突き刺さる。それをまともに受け止めている十六夜の背中が、あたしに伝える。  俺のそばから離れろ、と。 「行きな!」  鞭の合図と共に豹が駆ける。速い。  直面する十六夜は杖を地面に突き立てる。柄を基点に湧くのは黄金の鎖。大地を這いまわり、迫りくる豹を縛りつける。  だけど、先頭の一匹には間に合わなかった。捕らえ損ねた豹は、十六夜が体を起こすことを認めない。驚異的な素早さは生物というより、もはや風。  十六夜は体をさばき間一髪で避けたけれど、鋭い爪はズボンをかすめた。顔を歪めて振り返り、足が着く寸前の豹を蹴り飛ばす。大きく弾んだ豹はパズルを崩すかのようにバラバラになり、消滅した。  続く攻撃。 「脇が甘い!」  泳ぐ鞭が十六夜を狙う。瞬時に反応して構えるも、間に合わない。 「……くっ」  反撃を目論む腕を鞭が捕らえた。腕に巻きつき十六夜の体を軽々と釣り上げる。それでも十六夜は諦めない。時計台の頂上に着地すると、たるんだ鞭を力の限り引き寄せる。怠惰は鞭を離してしまった。 「もうちょっと本気出してよ、叡智。じゃないと面白くもないじゃない」  怠惰の両手には赤い三日月。体を落下させる十六夜も青い三日月を握る。  双方同時に放ち――衝突。  互いの距離が狭くなる中、次々と三日月は繰り出される。発光、交錯、発光、交錯交錯交錯――。毒々しい赤と青が混ざることなく膨れ、ふたりの姿を見えなくさせた。  光が収まり大地へ器用に降りた十六夜。立ち上がった時にはもう次の魔法を発動させていた。 「勘違いするな。俺の目的は、あくまでハートだ」  凄みを増していく彼を取り囲んで新緑が芽吹く。劇的に量を増やす若葉はイバラへ変化し、何度も増殖を重ねて怠惰を狙った。 「つまらないの」  彼女は靴のかかとを打ち鳴らす。その途端、今にも怠惰の頬に触れようとしたイバラがぴたりと動きを止める。  怠惰は微動だにせず掴んだ鞭でひと薙ぎ。イバラは広場の半分近くを緑化していたが、たったひと薙ぎで一掃された。  その間も、十六夜は攻撃の手を休めない。 「だから早く立ち去れ怠惰! ハートの話は、おまえに関係ないはずだ!」  杖から伸びるのは天を断ち切る深紅の光線。雲を突き抜け空まで届くそれを、十六夜は怠惰へ振り落とす。  怠惰もぬかりはない。  当たらないよう姿を消し、再度現れると大きな光の環を手にしていた。天使の頭で浮いていてもおかしくない見た目。彼女が持つとひどく禍々しく感じる。 「……そうね。確かに関係ないわね」  呟きと共に怠惰は放った。十六夜は杖で払いのける。  端からみたら至って冷静な行動だ。払いのけた環は確かに環の形を失った。だけど、消失することなく粉々になるのみ。  十六夜の脇で散りゆく光の砂は、結合するように互いに引き合う。作られた形は針の山。  折しも。その先にいるのは――あたし。 「え?」  目を疑う。  自分は外野にいた。激しい攻防が手に届きそうな距離で繰り広げられていても、世界からは断絶されていた。本で物語を追いかけている時と同じで、どれだけ臨場感に溢れていても、あくまで見学者として眺めていた。  怠惰はそうさせてくれない。あたしは見学者じゃなく参加者なんだと叩き込む。  視線を這わせて怠惰を探した。彼女は長い髪をなびかせ、腕を組みながら体の輪郭を消していく。  そして。 「関係ないなら、私がハートをどうしようと自由よね」  あたしの真横でハスキーボイスが囁かれた。冷たく、低く、冷酷さを保った一声。  できれば聞こえたのも気のせいにしたかった。なぜなら、音だけで距離の近さがわかるからだ。  ぎこちない動きで首をひねると、あたしの願いは砕かれた。  歩幅で言うなら、二、三歩といった距離。睫毛の動きまでよくわかる、そんな近さに彼女は立っていた。限りなく妖艶に笑いながら、最終通告を告げる。 「安心して。死なない程度にしといてあげる」  視界に映る全ての動くものが減速していった。  怠惰の瞬きも、唇の動きも……針の動きでさえスローモーションのよう。  音までくぐもって聞こえる中、加速するばかりの呼吸がはっきりと耳に届いた。針の向こうでは、怠惰の声を受けた十六夜がゆっくり振り返り、今、あたしと目があう。  だけど、遅い。  何が起きているのか。彼が把握した時に針はもう、あたしの目の前だった。  体の大きさを優に追い越す大量の尖りを見て、背筋にぞくりと悪寒が走る。  ――刺される!  瞳を開けているのが耐えられなくて、両手で顔を覆った瞬間。  ちょうど十六夜があたしの名を叫んだ時だった。  お腹の底にピリッとした痛みを感じる。刺されたと咄嗟に思ったけれど違った。静電気のようなそれは、一瞬で全身を走り抜けて胸の奥に密集し、弾けた。  あたしはのろのろと顔から手を外す。  体の外へ漏れ、波紋と呼ぶには強すぎる圧力が周りを飲み込んでいった。影響を受けたのは、今にもあたしを飲み込もうとしていた針。それに触れたはずみで木っ端微塵となった。  そして、怠惰。  驚きの声をこぼして姿を消し、あたしや十六夜から距離を置いた位置に出現した。 「そう簡単にはいかない、か。ハートも良くできているのね」  慌てた様子で、髪をふわりと舞わせた。  ハート……これが、この変な圧力がハートと呼ばれるもの……?  あたしは両手でこめかみを押さえた。頭の中を光の粒子が渦巻いている。ちかちかと点滅を繰り返して何かを言う。声が聞こえる。  すごく華奢な声。とても小さく、注意しなければ取りこぼしそうな音が体内でリフレインしている。  ……誰?  思い当たる声でもないのに肌が知っている。そんな声が外ではなく自分の中から聞こえた。 「何なの」  まだ痺れている手のひらをぼんやり見つめる。皺にピントがあわせられないほど、集中することができなかった。細い声が全ての力を奪っていく。  十五年間歩んできた道の一歩外れた場所にあるような、不自然さを伴う音色だった。記憶というより、魂に刻まれた声と言い切ってしまったほうが、脳みそを辿るより遥かに自然だと感じる。思い出すかどうかじゃなく、ただ知っている。それだけの話。 「萱……」  指の間に見慣れた色が混ざり込んできた。視線を上げると、明らかにうろたえている十六夜がいた。  彼が近くにいる。十六夜自身がどれだけ戸惑いの表情をしていても、今のあたしに十六夜という存在以上に安心を与えてくれるものはなかった。  よほど気を張りつめていたのだろう、暖かな瞳を見た瞬間、置いてきた奮えが今更全身を支配する。 「十六夜、あたし、これって」  自分の体に腕をまわして十六夜へ問う。滑らかな会話が出てこなくて、途切れる言葉が口をついて出る。それでもすがる思いで続けようとしたけれど、唇の感覚が怪しくなりだして言葉にならなかった。  十六夜はあたしの全身を確認するように目を走らせる。あたしへ話しても良いのか、間違いなく迷っている。  一旦怠惰へ視線をやり、さらに数秒迷った挙げ句、意を決したようにあたしの肩を掴んだ。 「この戦いが終わったら全部話すから。今は要点だけ言わせてくれ」  怠惰へ気を払いながら、十六夜は重々しく話しはじめる。  その内容に、あたしは驚きを隠せなかった。なぜなら―― 「さっきの力、実は今回で二度目だ」 「……え?」 「萱はもうハートとして目覚めている。俺とはじめて会った時から、ずっと」  思考がふっ飛び、頭の中が真っ白になる。  立っているのがやっとな状態のあたしを、肩を強く掴んで支える十六夜。  申し訳なさそうに瞳を伏せながら、あたしを促した。 「その時の朝を思い出してほしい」 「はじめて会った時の朝……」  思考を放棄したあたしは、彼のセリフをそのまま反復した。考えがまとまらない状態で、そう遠くない過去を必死に引っ張り上げる。  はじめて会った時。十六夜が素知らぬ顔で隣に座っていた、あの時を示しているのだろう。友達であるかのように佇んでいた、あの時のことを。  それ以外におかしなことはなかった。十六夜以外は全て普通だった。 「十六夜が隣に座ってて」  ゆらゆらと揺れ動く茶色い瞳に囚われながら、順番に記憶を辿っていく。  確か、今みたいに顔を覗き込まれていた。そして……。 「十六夜が裸になった」 「その前」  あまりにも強烈な記憶だったので、思わず口にしたけれど。  その前、十六夜が脱ぐきっかけとなった理由を思い出す。 「あたしが突き飛ばしたから、だよね」  その弾みで机にぶつかり、椅子をひっくり返したはず。  呑気な光景を思い出すあたしとは逆に、十六夜の表情は険しい。 「本当にそうだったか」 「え?」 「本当に突き飛ばしたのか」  何を……言うの。  十六夜の問いかけは、答えをあからさまに見せつけていた。つまり、あたしは突き飛ばしていないと言いたいんだろう。  だけど十六夜が机をなぎ倒すには、突き飛ばされない限り到底無理な話だ。  そこまで考えて、ひとつの考えが頭をよぎる。  机にぶつかって椅子もひっくり返したとなると、結構な力で突き飛ばしたことになる。はっきり言える。あたしは力いっぱい押していない。そんなことをしたらさすがに覚えている。  じゃあ、あたしはどうやって十六夜を突き飛ばしたの……? 「あたし……あたしは」  正解は喉のすぐそこまで出かかっていた。  針を粉々にするほどの力があたしの中から生まれた。たった今、この目で見たのだから、どう足掻いても誤摩化しようがない事実。残された行動は頷いて認めてしまうだけだ。  なのに。それなのに体が拒否をする。心臓を失った機械のように、関節が動こうとしない。  ――強情者。心の中で自分を罵ると、白濁した脳を邪魔する人物が現れた。 「話は終わった? 待っていてあげる私の優しさに感謝して頂戴」  カツカツと、わざとヒールを鳴らせるように怠惰が近寄る。豪華な髪が彼女の歩みに合わせて派手になびいた。 「怠惰。俺を愚弄するのもいい加減にしろよ」 「愚弄した覚えなんてないけど?」 「俺とおまえの関係に萱もハートも関係ない。そう知っていて何故巻き込む?」  十六夜はあたしから体を離し、背を向ける。 「少しは自分で考えたらどう」  怠惰は嬉しそうに答えた。十六夜が焦っているのが楽しくて仕方がないといった態度。  どこまで本気であたしを傷つけるつもりなのか理解できなかったけれど、ひとつだけわかることがあった。  彼女は十六夜を煽っている。あくまで狙いは十六夜で、あたしは十六夜を慌てさせる餌にすぎない。現に、今の十六夜は近寄るのを迷ってしまうくらい苛立っている。  十六夜のシャツの裾を握った。握っていないととんでもないことが起きてしまいそうで。  だけど正面を睨みつけたままの十六夜は、それを拒否する。あたしの手首を掴むと、服から引きはがしてきた。 「……萱。すぐ戻るから、しばらくここで待っていてほしい」 「え」 「怠惰をどうにかしてくる」  彼は掴んだままの手首をそっと離す。十六夜の手の形をした熱が、晒された素肌から急激に失われていった。凍える手首を抱きしめて、あたしは遠ざかっていく背中を引き止めようと言葉をかける。 「待って十六夜! ひとりにしないで」  不安だった。一旦手にいれた安心感が離れるなんて、耐えられそうになかった。  十六夜は歩みを一瞬止め、苦い顔をして振り向く。 「萱の体なら、ハートが守ってくれるから」 「そうじゃなくてあたしは!」  なんてわがままなんだろう。  十六夜はあたしの不安を消し去ろうとしてくれている。それが十分理解できるのに、あたしは自分に都合のいいことばかり願う。  そばにいてほしい。不安を取り除いてほしい。  全てを知る勇気さえないくせに、そんな都合のいいことばかりを願う。  現実と相反する感情があたしを覆い尽くして、それ以上何も言えなかった。わなわなと、首を振るしかできなかった。  丁度その時。 「十六夜さん! 萱さん!」  聞き慣れた声が彼の隣に現れる。 「邪羅さん……」  赤茶けた髪を翻し、何もないところからさも当たり前のように現れてきた。 「魁を見ませんでしたか」  槍を水平に構え、十六夜を見ずに辺りを警戒している。 「見ていない」  十六夜は、怠惰へにじり寄る足はそのままで短く答える。怠惰は何故か何も仕掛けてこようとしない。腕を組み、薄く笑って見守るのみ。 「大きな力を感じた時に消えまして。もしかして先ほどのは……」  邪羅さんはあたしを一瞥する。十六夜は背中でそれを肯定した。 「ハートの力だ」 「やはり!」  邪羅さんは切れ長の瞳を大きく見開き、あたしを凝視した。 「邪羅すまない、萱を任せていいか」 「え」  あたしと邪羅さんの声が重なった。 「怠惰を帰らせてくる」 「魁がここにくるかもしれな」 「――萱」  制する邪羅さんの声を遮り、十六夜はあたしの名を呼ぶ。彼は振り返ろうとする気配が全くない。杖の照準を怠惰に合わせ、ぼそりと呟く。 「一緒にいてやれなくてごめん。終わったらすぐ戻るから」 「いざ……!」  そうして、あたしが名前を呼び返すのを待つことなく彼は姿を消した。怠惰の姿もそこにはなく、残されたのはあたしと邪羅さんだけだった。 「大丈夫、ですか?」  うなだれるあたしに近寄り、恐る恐るといった様子で声をかける邪羅さん。  大丈夫というのは、何を指しているのだろう。体はどう見ても無事なのだから、精神的なダメージを気遣っているのだろうか。  そんなに酷い顔をしているのかと思い、必死で明るい雰囲気を取り繕う。  軽く笑って手を振り、平気だと主張すると制服の破れが目に入る。 「それって」  破れたものでなく、明らかに刃物で斬られた綺麗な切り口。服の形を保つのがぎりぎりなほどひどい有様だ。赤い染みが見当たらないのは、体へのダメージがないってことだろう。  一体誰が彼にこんなことをしたのか。  犯人が誰なのか、推測するのは容易い。邪羅さんは怠惰が仕掛けてきた矢先に、あの人を追いかけていったのだから。 「魁にやられたの?」 「ええ」  彼はばつが悪そうに微笑むけれど、気は抜いていなさそうだ。槍を持つ手に筋が浮き立ち、いつでも動かせるように力が込もっている。  ……魁を探している。  服の跡を見ると、魁の強さが手に取るようにわかった。十六夜も受け止めるだけで精一杯だったのだから、邪羅さんが無傷で立っているのって奇跡なんじゃないだろうか。  黒い髪と黒い瞳を脳裏に思い浮かべる。  魁がそばにいるだけで、神経をなぞるような居心地の悪い感覚が走る。肌が何も反応を示さないことから考えると今は恐らく。 「近くにいないよ。あの人」  十六夜より少し低い視線と目をあわせて言う。聞き届けた邪羅さんは、眉を跳ねさせて驚いた。 「魁がどこにいるのか、わかるんですか?」 「邪羅さんにはわからないの?」  その様子に、逆にこちらが面食らう。 「怠惰とかはわかるんですけど、魁の居場所はわかりませんね」  手をあごに押し当て瞳をさまよわせたあと、考え込むように視点を固定させている。  しばらくして、何か引っかかったらしい。ぶつぶつと呟きながら自問自答しはじめた。  何だろう、と顔を覗き込もうとすると……例の気配がした。  場所は、あたしの背後。  首筋に冷たい空気を感じて反射的にしゃがむ。途端、頭の上から風を薙ぐ音と金属同士が噛みあう音が鳴り響く。  あたしは足の隙間を必死にすり抜け、邪羅さんの背後に逃げた。  槍を突き出す邪羅さんに対峙するのは……魁。あの人だ。  無表情のまま漆黒の瞳を揺らし、あたしと邪羅さんを交互に見比べる。 「良く避けました。あと数秒遅れていたら首が飛んでいましたよ」  邪羅さんが先の分かれた槍で剣を捕らえたまま、至って冷静に褒めた。  確かに数秒でも遅れていたら、文字通り首が飛んでいたことだろう。嫌な汗が背中に流れた。 「さて……あなたがハートを狙う根拠を聞かせていただきましょうか!」  剣を押し退けると、魁は数歩後退して距離を取った。邪羅さんは間髪入れずに魁を追いかける。  身長を遥かに越した槍をいとも簡単に操る邪羅さん。踏み込みと同時に魁へ激しく打ちつけると、魁の髪がはらりと散った。  魁も見ているだけじゃない。犠牲になった髪を剣で吹き飛ばし、邪羅さんの肩を狙う。 「全く、本当にお強いですね」  紙一重で邪羅さんは避ける。ところが、魁は一枚上手だった。剣はさらに加速して翻り、邪羅さんの急所をピンポイントで狙う。  黒い弧を描く残像が空間に残された。 「一体何が目的なんです。こんな回りくどいことをして何の得が……!」  剣を受けながらも、無言の相手に語りかける邪羅さん。  槍が受け、返し、踏み込んで貫く。  剣が遮り、掬い、斬り上げると枝分かれした槍が刃に噛みついた。  互いに一歩も譲らないせめぎ合い。ぶつかるごとに加速していき、次第に動作と音圧にズレが生じはじめた。目が全然追いつけない。  剣と槍の長さから、距離があると有利なのは槍のほうだ。接近しすぎるとその長さが仇となるらしい。邪羅さんはできる限り離れようとするけれど、魁は隙を与えてくれない。瞬く間に間合いを詰めて剣を繰り出す。  邪羅さんの体へかすった剣が制服を切り刻むと、左腕の一部がはだけた。白い生肌がむき出しになり、真横に引き裂かれた皮膚が鮮やかに浮かび上がる。 「邪羅さん!」  助けることなんてできもしないのに、あたしは手を伸ばした。  当然ながら彼に届くわけがない。指先の向こうで、邪羅さんの懐に踏み込んだ魁が剣を流すのを眺めるだけだった。  槍で剣を受け流しても、それは致命傷を避けるのみ。受けきれなかった攻撃は遠慮なく邪羅さんを傷つけていく。腕も足もズタズタになり、あたしは目を背けてしまった。  彼らが傷だらけになってまで何を守ろうとしているのか。考えるまでもなく、散々出てきたキーワードが脳裏をかすめる。 「……ハート」  彼らの気迫に気圧されて、あたしはのろのろと後退した。震える手のひらを固く握り、針の群れを粉砕した不思議な力を思い出す。  あたしを守ってくれた力。十六夜の時も針の時も、あたしに危害が加わりそうな時に働いた『拒絶』の力。 「ハートって一体……」  今ここがどんな場所かも忘れ、数少ない情報をかき集め出した、その時。  目の端に妖しく揺らめく影が映る。光の玉だ。  あたしに向かって真っ直ぐ流れる。咄嗟の判断で飛び退くと同時に着弾――爆発。  針状の輝きが飛び散り、その内の一本が左腕を擦り抜けた。 「……!」  鋭い痛みが左腕から走る。恐る恐る左腕を見ると、手首付近から血が流れていた。  鮮やかな筋が浮かび上がり、おびただしい量の血が溢れてくる。手で押さえ込んでも、指の隙間から漏れるばかりで止まる気配がない。   あたしは足元にできていく血の染みから視線を外し、邪羅さんを探そうと顔を上げた。  彼の無事な姿を見たかったのだけれど、誰もいない。魁さえいない。  どこへ行ったのかと辺りを見渡していたら、 「萱!」  探していた人物と違う声に呼ばれた。  振り返ると、十六夜があたしの手首を凝視して呆然と立っていた。こちらへ慌てて駆け寄り、傷口を押さえたあたしの手に彼の手を重ねてきた。間近で見る十六夜の頬が、細かく震えている。 「ごめん。俺がそばにいなかったから」  伏せられた視線が足元の血溜まりで停止している。 「止血すれば大丈夫だよ」  目を合わせない十六夜に笑いかける。出血の量は減っているので、あたしの体は心配ない。むしろ消えた邪羅さんのほうが心配だ。  十六夜がいない間に何が起こったのか説明しようと口を開いた時、ふと強烈な違和感を覚えた。違和感の元は十六夜の足だ。  一本筋に破れている制服のズボン。赤い傷口が見えることから、黒豹にやられた時の痕というのはわかる。  あたしにも傷があるのに、ふたりには大きな違いがある。  どうして――。 「どうして十六夜は血が出てないの」  十六夜の傷口は出血した痕が見られない。  そう言えば邪羅さんも同じだった。魁に斬りつけられた時も、血が出ていなかった。瞬間を目の当たりにした時は不思議にすら思わなかったけれど……血が出ないなんておかしい。  十六夜は血まみれになった自分の手のひらを、苦そうに見つめながら呟く。 「俺もわからん。俺が出血してないってことより、萱が出血していることのほうが」  意味がわからない。  傷ができたら出血するのは当たり前だ。それなのに、出血そのものがおかしいという口ぶりをする。 「どういうこと」  当然浮かんだ疑問を投げかけると、十六夜はふわりと笑った。 「後でゆっくり話をしよう。な?」  血に濡れた手をぐっと握り、十六夜は杖を構え直した。あたしの背後を睨みつけている。視線を辿ると、妖艶な笑顔を浮かべる美女、怠惰の姿があった。 「美しい光景ね。叡智なんか辞めて本当の人間になったら?」 「うるさい」  低く吐き捨てる言葉が場の空気を一変させた。絶対零度の怒りが彼から滲んでくる。 「よくも萱を傷つけたな」 「役割を放棄したのはあなたでしょう?」 「あぁそうだ。俺自身にも本気で腹が立つ。けどな」  十六夜の杖が、主人の感情と連動するように不気味な光を帯びだした。怠惰へ近寄るごとに、荒々しいリズムを刻む。 「お前を絶対許さない」  十六夜から発せられる圧が増した。手が届く距離なのに、見えない何かの力があたしの体を押し返す。足が後ろに追いやられ、あたしと十六夜の間があいていく。  怠惰を見た。鮮やかな唇は勝ち誇ったような笑みをたたえる。  きっと、彼女の計画通りなんだろう。現に十六夜は我を忘れている。 「落ち着いて十六夜。あたし大丈夫だから」  足を踏み出す。水中で歩くような錯覚を起こすほど、圧力が強い。触れられる近さまで一歩ずつ十六夜に歩み寄ると、それを察したのか十六夜がこちらに振り返った。 「萱はここで待っててくれ。すぐに終わらせる」 「十六夜だめ。行っちゃだめ」  やっとの思いで手を伸ばしたけれど、掴めたはずの彼の手は、もうそこにはなかった。指先は虚しく空を切る。  十六夜は目の前で姿を消した。間に合わなかった……。  そんなあたしに追い討ちをかけるのは、突然こだまする怠惰の悲鳴。 「え?」  この駅にいる全ての人に届きそうな大絶叫。  嫌な予感がする。  必死に目を走らせて怠惰の姿を探す。人の隙間や建物の影。動いているものはないかとしらみつぶしに視線を這わせた。  地面に横たわる金髪に気づいたのは数秒後。怠惰はよろけながら、何とか立ち上がる。朧げにしか見えないこの距離でも大きなダメージを受けているのがわかった。  そして、身の毛もよだつ光景を目撃する。  怠惰の長い髪がはらりと舞った瞬間、髪の隙間から怠惰の腕が見えたけれど。  左腕の肘から下が――なかった。  足元からぞくりとした寒気が走る。  腕をなくすほどの酷い惨劇。誰がやったかなんて、考えるまでもない。否定したくても、怠惰の傍には追い打ちをかけようとする彼がいる。 「十六夜! やめて!」  冷酷に怠惰を見下す彼を見て、咄嗟に叫んで飛びだした。  血が滴る。腕が痺れる。  それでも走った。十六夜の元へ行きたかった。 「十六夜……十六夜……」  こっちを見ようとしない彼の名が、口からぽろぽろと落ちる。もつれる足を引きずって、一歩でも早く辿り着こうと賢明に駆けた。  あたし馬鹿だ。  意固地にならず、ハートや十六夜のことを受け止めていればこんなことには……。  後悔したって遅い。でも、憎しみで歪んだ顔なんて見たくない。こぼれるような笑顔が見たい。  わき目も振らず無我夢中で走る。後先のことなんて何も考えずに十六夜の背中だけを目指していたら、 「止まれ」  あたしと十六夜の間に影が落ちた。漆黒の剣が行く手を阻む。  ――魁。  剣を大きく振りあげ、あたしに遠慮なく斬りかかる。  状況の把握に時間を有し、避けることすらできないでいたら、誰かに腰を引っ張られた。体が宙で折れ曲がり、間一髪で剣を免れる。犠牲になった前髪が数本舞い散るのを見届けると、助けてくれた人物はあたしを軽々と肩に担いだ。 「邪羅さん!」   走る振動が彼の肩からお腹に響く。どんどん離れていく魁を眺めながら、あたしは灰色の背中を慌てて叩いた。 「邪羅さんどうしよう! 十六夜が怠惰の腕を!」  危険が去ったと判断したのか、邪羅さんは足を止めてあたしを下ろした。 「前代未聞の事態です。まさか怠惰の腕を消滅させるほど暴走するなんて」  険しい表情で槍を出現させて地面に打ちつける。苛立った音が辺りに散らばった。 「萱さんも、一歩間違えれば命を落としかねないことを自覚してください。魁があなたを……」  言いよどんだ直後、胸が突然騒ぎはじめた。  邪羅さんは唇に人差し指を押し当てる。 「静かに。魁がいません」  澄みきった空間に不純物が混ざったような空気のズレが、どこかへ消えた。  こめかみに手を当てて探っていると、不純物が確かな輪郭を伴ってあたしの意識をかすった。その位置は、邪羅さんの背後。 「オマエは邪魔だ」  邪羅さんは即座に体をひねったけれど、遅い。魁に蹴り上げられ、時計台に激しく叩きつけられた。  喉を引き裂く悲鳴。叩きつけられた体は重力に従って落下する。  沈黙が訪れた空間は小さな音を膨らませる。あたしへにじり寄る足音を肥大させ、人の崩れる音を消し去った。 「ハートはオレがいただいていく」  これで終わりだとばかりに切り捨てた。  その手に剣はなく、後退りするあたしに向けているのは両の手のひら。中心から黒い粒子が吹き出して幾多の錐と化した。  怠惰の針を彷彿とさせる錐。だけどハートが助けてくれたあの時と違うと本能で感じた。  つまり、助かる手立てはどこにもない。 「恨むならハートを恨め」  ……もう、ダメだ。  錐の影があたしを覆っていく。見るのが恐くて目を固く瞑ったら、 「萱!」  求めてやまない腕に抱き止められ、そのまま地面を滑った。あたしを狙っただろう錐が、大地にぶつかる音が届いてきた。 「十六夜!」  大きな胸の中で目を開けると、至近距離で微笑む十六夜の顔があった。 「無事、だな? 良かった」  力なく笑うその顔に、憎しみなんてなかった。ただただ優しい、いつもの十六夜の笑顔しかなかった。 「怯えさせてごめん」 「あたしこそごめん……弱くて、ごめん」  急に顔をしかめる。呼吸が荒い。  原因を探るため体を起こすと、彼のふくらはぎに錐が突き刺さっていた。 「大丈夫!?」 「俺は萱の笑顔が――萱が好きなのに、困らせてばかりだ……うっ!」  涙で視界が緩んだまま槍に手を伸ばした――その瞬間。  何の前触れもなく視界が揺れ、目の前の十六夜が消えた。そして、濃度の高いざわめきが溢れ出す。子供たちのはしゃぐ声や買い物帰りの人の声。ありとあらゆる音が突然耳に入ったものだから、体が前のめりになった。  そこでようやく異変に気づく。さっきまであたしは、床に倒れ込んでいた。その体がどうして前のめりになるのか、どうして立っているのか。  辺りを見回し人々が動いているのを確認して、時間が流れていると理解した。  ――元の世界に戻ったの?  周囲に視線を巡らし魁や怠惰の姿がないと確証を得た途端、力が抜けた。同じ場所なのに、何だか空気まで生き返った気がする。  あの状況で解放された理由はわからないけれど戻って来られたんだ。十六夜に話を聞いて、一体何が起きているのか教えてもらおう。  今度こそ、全部聞くんだ。  そう決心した矢先。隣で時計台にもたれていた十六夜が、無言のまま歩き出した。 「十六夜? どこ行くの?」  彼は足早に立ち去ろうとする。  ……おかしい。さっき十六夜は、錐に足を刺されたはずだ。どうしてこんなに早く歩けるの?  離れて行く足元に目を凝らすと、驚いたことに無傷だった。  そしてもうひとつ驚いたのは、振り返った十六夜の冷たい瞳。  どうしたのと声をかける間を与えてくれないまま、彼は人混みの中に消えていった。  あんな目、あたしは知らない。 「十六夜……?」  わなわなと指が震える。  何かとんでもないことが起こった。予期さえしていなかった――最悪なことが。  呆然とするあたしの肩を邪羅さんが叩いたのは、もうしばらくたってからのことだった。 NekoProject =============================================================== Name *** くろネコ *** URL *** http://nekoproject.net/ *** Mail *** nekonekoproject@gmail.com *** =============================================================== 感想お待ちしております。